★南京大虐殺~朝日新聞が避けて通れない、もう一つの「戦後責任」~
日本は真実の映像を全世界に。
国連教育科学文化機関(ユネスコ)は2015年10月、中国政府側が申請した南京大虐殺関連の資料を世界の記憶(世界記憶遺産)に登録した。
これに対し、日本政府は「日中間で見解の相違があるにもかかわらず、中国の一方的な主張に基づき申請され、問題だ」などとして抗議した。
中国が犠牲者30万人と主張するいわゆる「南京大虐殺」はでっち上げであり、存在しなかったことは明らかです。
中国が当初、「南京大虐殺」を根拠にしたのは
「中国の日本軍」(本多勝一著/本名・崔泰英)
この2冊の本です。
本多勝一の中共との合作本「中国の日本軍」いわゆる「南京大虐殺」は、吉田清治の従軍慰安婦と並び朝日新聞の二大捏造事件でした。
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、
実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
ところが、この写真の出所は、実は本多氏が当時勤めていた朝日新聞社発行の『アサヒグラフ』(一九三七年十一月十日号)に掲載されたもの。
日本兵は家路につく少女たちを護っていた
とのキャプションがついていて、少女たちの笑顔もはっきりと写っており、「南京大虐殺」とは何の関係もない写真であることは、誰の目にも明らかです。この矛盾点を問われた本多氏は、週刊新潮(9月25日号)に次のようなコメントを寄せています。
「『中国の日本軍』の写真説明はすべて中国側の調査・証言に基づくものです」
「『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに「誤用」のようです」
「南京大虐殺」は東京裁判でも取り上げられているから捏造では無いと主張する輩がいます。ですが、証言者はたった1人で「意図的に第三者による手が加えられたもの」だったといわれています。半島の主張も同様ですが、
自分たちの行った残虐非道なふるまいを全て日本軍のせいにしているのです。
東京裁判判決では、
「中国軍はこの市を防衛するために約五万の兵を残して撤退した。1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国軍のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を捨て国際安全地帯に避難した」(Wikipedia)
とあり、30万人の根拠は何処にも示されて居りません。
虐殺があったという当時、国民党軍も共産党軍も、一言も南京虐殺に触れていません。
蒋介石も毛沢東も、南京に日本軍が入ってなお、一言も触れてないのです。
何かにつけて日本を攻撃したがり、重箱の隅をつつくほどの彼らが、一言も触れていないのは、無かったからに他なりません。
当時の刊行物にも日本軍によるそのような虐殺があったなど一言もありません。
当時、国民党軍側は、日本軍に敗れた共産党軍を、情けないとして即座に非難していますが、 存在しない南京大虐殺について当然語れるはずも無く、現実に一言も触れていません。 もしあったなら、国民党は狂ったように日本軍を叩いているでしょうし、共産党も同様の反応をしたでしょう、 世界中のジャーナリストもそれを報道し糾弾したはずですが、当時誰も何も言っていません。
無いものを攻め立てることなど出来ないのですから。
南京大虐殺というのは、戦後東京裁判で、日本に濡れ衣を着せるために、創作された作り話です。
南京陥落、そして日本軍が南京に入り都市整備し、銀行を作り病院を作り、治安を良くし南京の人口が増えていたほどなのですから、 中華である国民党も共産党もそれについて文句を言えるはずがないのです。
南京大虐殺は東京裁判そしてそれ以後の戦後に発生した創作ものです。
従軍慰安婦強制連行に似ています、従軍慰安婦強制連行も戦後に作られた創作の架空話。
日本軍南京入城直後の記録映画
蒋介石は一度も「南京大虐殺」に言及せず。 蒋介石は終戦に至るまで中国人民向けにラジオ演説を行なっています。
彼はただの一度も、「南京で大虐殺があった」等のことは言っていません。
日本軍が占領した直後から復興し、人口も陥落前の20万人から占領二ヶ月後25万人に増えました。
安居証(市民登録の鑑札)を求めて人々が長蛇の列です。
30万人も大虐殺されたのに、こんなに人集まりますか? 人口が増えるって・・・
半島と同じような事いってませんか?
1937年、日本軍が南京城を攻略した際に、捕虜や市民を虐殺、略奪、放火したと言われています。
果たして虐殺は本当にあったのでしょうか。
今日、中国は、南京城の内部のみで30万人の虐殺があったと主張しています。
また、日本でも歴史教科書では「南京虐殺」を絶対的な事実として教えています。
本当に日本の軍隊は大虐殺をしたのでしょうか。
それとも真実の歴史は異なったものだったのでしょうか。
南京戦に参戦した元日本軍兵士たちの証言から歴史の真相を明らかにしています。
「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。
私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。
彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。
部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
大勢が列車の屋根にも乗っていた。
日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。
誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。
指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。
あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。
国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、
それは日本軍の残虐行為として転嫁された。
外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。
外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。
全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。
外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があったという。
外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。
南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。
私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。
南京大虐殺記念館(紀念館) | The Memorial of the Nanjing Massacre [4k]
記念館は当時の社会党の田辺誠が設立を強く中国に働きかけて実現したものです。
なぜ中国がそれらを撤去したかおわかりですよね。捏造を否定できないからです。
中国のプロパガンダに負けずに事実を拡散してくれています。
Tokyo_umare🇯🇵@tokyo_umare南京のプロパガンダに対抗して、 ポジティブな真実の宣伝投稿です☺️ 優しい写真は自由に保存してください。 沢山見て貰えたら嬉しいです👍🌸 先人の名誉を守る🇯🇵 #南京大虐殺は嘘 #靖国神社で会おう https://t.co/9N27KKSKbW
2020年12月17日 16:21